1994.7
兵庫県姫路市。「次は何して遊ぼうか」と当時 中学三年生だった真夢と乱丸を中心に、seraphの母体となるバンド『 Dream Ticket 』を結成。
当時のメンバーは【 Vo,龍斗(りゅうと) Gu,真夢 Gu,心影(しんえい) Ba,時雨 Dr,乱丸 】
1994.11
学園祭でライブデビューを果たし チヤホヤされたことに勘違いしたバンドは本格的な活動を始めることとなる。
この学園祭で演奏された楽曲は L'Arc~en~Ciel のコピーで、その演奏は見る者の度肝を抜くほどに酷いものだったらしい。
1995.4
その後 バンドは奇跡的にメンバー全員が入学出来た高校で神楽と出会う。この頃の神楽はバレーボールに打ち込むスポーツマンであったのだが、乱丸の「バンドやってるとモテモテでしゃ~ないわ~」の一言が決め手となりバレー部を引退、バンドマンとなる。
もともと小学生の頃にピアノを習っていたこともあり、キーボーディストとして先輩バンド『 Crazy Rose 』に加入。Dream Ticket のメンバーとも親交を深めていく。
1995.11
それまでツインギターを売りにしていたDream Ticket だったが、サイドギターを担当していた心影が脱退することで真夢のギターサウンドのみとなる。バンドで出す音の厚みを考慮して 仲の良かった神楽をメンバーに誘うが、Crazy Rose の活動が多忙だったことと Dream Ticket のボーカリスト龍斗のあまりの音痴ぶりに誘いを断る(龍斗自身も自分の音痴を認めており、ライブのMCではそれをネタに爆笑を誘っていた)。
ちなみに心影の脱退理由は 某人気バンドからの加入依頼が届いたことであり、メンバーと話し合った結果「みんなで心影を応援しよう」という円満な脱退劇であった。
1996.1
神楽は 自身が在籍していた Crazy Rose の女性ボーカリスト明菜(あきな)の自宅に大勢の仲間を招いて行われた新年会で 明菜の弟と出会う。
明菜の所有するMTR(宅録機材)を使っての多重録音が趣味だという弟のオリジナル曲をデモテープで聴いた神楽は その楽曲の完成度の高さに驚愕する。
「ポップセンスとロックな緊張感、艶やかに歌われるボーカルの声質、その全てに衝撃を受けた」(神楽)
この宅録少年、明菜の弟こそ のちに seraph のボーカリストとなる愛音である。
1996.2
当時 Dream Ticket はテクニカル系の洋楽バンドをコピーしていた為、もともと J-POP 指向だった龍斗の目指す音楽性とは異なるバンドとなっていた。そして ソロとしての活動に方向転換しようと決断した龍斗は Dream Ticket を脱退することとなる。
1996.3
真夢の家に遊びに来ていた神楽は そこで明菜の弟、愛音と再会する。愛音は真夢、時雨、乱丸と同じ中学校に通う後輩で(真夢、乱丸からすれば同じサッカー部の後輩でもある) Dream Ticket に憧れ、この春 自分たちと同じ高校に進学し バンド活動を始めたいという気持ちがあることを知った神楽は、愛音をボーカルとして Dream Ticket に加入させることを条件に自分もキーボードとして Dream Ticket のメンバーになることを提案する。
行動力と決断力を持ち合わせた神楽の加入は バンドの今後を考えた時にもプラスにしかならないと感じた真夢は、時雨と乱丸に電話で事情を説明し その場で愛音と神楽の加入を決定する。
翌日、真夢の家に集まったメンバー5人でミーティングを開き『神楽をリーダーとすること』『コピーバンドを卒業し、愛音の作る楽曲をメンバーそれぞれがアレンジしたオリジナル曲で活動していくこと』『ライブでの衣装やステージングをどうするか』等の活動方針が決められていった。
またこの時にバンド名を『 seraph 』と改名。
こうして seraph は結成されることとなる。
1996.4
神楽は 自分が2つのバンドを掛け持ちで活動することは無理だと判断し、Crazy Rose からの脱退を決断。同バンドのボーカルであり愛音の姉である明菜に「愛音の作る楽曲に惹かれていること」や「seraph の持つ可能性」を説明し 脱退を了承してもらう。
1996.5
大工をしていた乱丸の父(通称:タカシ親分)が「いつでもドラムが叩けるように」と seraph の為に防音スタジオを建設。seraph はこのスタジオを『音呼塾(おとこじゅく)』と名付け、毎日のようにバンド練習を行うようになる。これ以降もタカシ親分は色々な面で seraph を支えてくれることとなる。
1996.8
兵庫県某ライブハウスにて、seraph としての初ライブを行う。また同月、夏祭りのイベントに参加する為に四国を訪れていた seraph は ライブ本番前の楽屋でローカルテレビ局のインタビュー取材を受け、唐突すぎるブラウン管デビューを果たす。その模様は生放送され、まだ幼さの残る高校生の少年達が一生懸命にお化粧に励む姿が映し出されていた。また同月発売された某ファッション誌の『街角スナップ写真』のコーナーに 愛音と真夢の二人の写真が掲載されている。
1996.11
東京都でライブを行う。このライブで seraph は将来の東京進出を強く意識するようになり、その後は首都圏でのライブ活動も増加。ライブの度にタカシ親分の車は首都圏へ向けて必然と走り出すことになっていたらしい。
1997.3
seraph 結成1周年を記念して、初ワンマンライブ『 seraphic party 』を兵庫県某ライブハウスにて行う。
1998.3
真夢、時雨、乱丸、神楽の4人が高校卒業。翌年の3月の愛音の卒業を待って、seraph としてメンバー全員が上京することをバンド内の決め事とし、それまでの1年間を主に楽曲制作&バイト三昧で過ごす。これにより各メンバーの使用機材も充実。
1999.4
seraph 上京。拠点を東京に移し、更に本格的なバンド活動を始める。
seraph のメンバーは全員同じアパートに暮らしており、101~105号室までを seraph のメンバーで占めていた。そのことからメンバーは勝手に『せらふ荘』と段ボールで作った看板を掲げて大家さんに怒られる。
2000.11
seraph は某音楽プロダクションから契約を持ち掛けられるが「メジャーデビューという道以外でも きっと自分たちの音楽を広く届けていけるはずだ」という神楽の意見から この契約を断る。もともとメジャーに関しては拘りのないメンバーたちであった為、バンドリーダーである神楽の意見を尊重。のちに神楽は「メジャーに行くと自分たちの音楽に自由の幅が狭くなると思った。音楽に対しては常に自由でいたい。たくさんの人たちに僕たちの楽曲を届けるという意味ではメジャーに行くことが正解だったのかもしれないですけど、僕たちが音楽を奏でる理由にはそれ(有名になってたくさんの人たちに楽曲を聴いてもらうこと)よりも大切にしなくてはならないものがあって、実にそれこそが seraph を seraph たらしめてると思ってやってきた訳やから、後悔なんて全くしてませんよ。うちのメンバーみんな、自分たちのことは自分たちで決めたいって性格な奴なんです。締め切り守るの苦手やし(笑)」と語っている。
この後もメジャーに関するいくつかの話は上がったようだが『何にも縛られず自由に音楽を』という姿勢を崩すことはなかった。誰に何を言われることもなく、楽曲を作りたい時に楽曲を作り、ライブをしたい時にライブをするというスタイルが彼らには合っていたのかもしれない。
2002.3
都内某ライブハウスでのイベント終了後、愛音が体調不良を訴え緊急入院することとなる。この突然の入院生活は翌年3月まで続き、seraph は約1年間の活動休止を余儀なくされる。
愛音は東京を離れ、実家のある兵庫県の病院へ。
なお、愛音の病名は非公開にされている。
2003.3
愛音が退院し seraph の活動が再開する。愛音はこの入院期間中に 病院の医師から「面白い奴がいるよ」と紹介された不動孔明という人物と知り合い、seraph のことや音楽に関することを色々と相談している。そして seraph のメンバーとも仲良くなった不動孔明は 6人目のメンバーとも言えるほどにバンドと親密な関係を築いていくこととなる。
2003.6
自主制作デモテープ『 seraphic love 』を200本限定配布。
2003.12
自主制作デモテープ『 seraphic heart 』を200本限定配布。
2004.4
体調不良により愛音が再入院する。2度目の入院ということで愛音自身も心を塞いでしまっていた部分もあったのだが「どうせ思い描く活動が出来ないのなら、もう一度自分たちの夢を描き直してみようぜ」と、バンドメンバー5人と不動孔明を合わせた6人が愛音の病室に集まって seraph としての今後の活動計画を立てる。そこで出した答えが『終わらない為の解散』であった。
「この年の12月に解散ライブをすること」「今までに作ってきた楽曲をレコーディングして音源を残すこと」等、seraph に残された最後の時間を計画していった。
「解散を決めたバンドとは思えないくらいに、メチャメチャ明るく楽しい時間を過ごしていた」(不動孔明)
2004.6
決して退院してもいい状態ではなかったものの、愛音は「バンド活動を優先したい」という理由から強引に退院してしまう。そして同月、seraph は地元(兵庫県姫路市)に戻り『音呼塾』(上京するまで使用していた練習スタジオ)にてレコーディングを行う為の準備を始める。
レコーディングに使用する機材に関しては、不動孔明が連れてきた 深海純 という人物が全て手配した。深海純はレコーディングエンジニアになるための専門学校に通っていた為、実践を兼ねた実習という名目で学校にある機材一式を持ち出したのである。また 仲の良かったバンド仲間や、お世話になっていた楽器店、スタジオ、ライブハウスからレンタルした機材も多くあった。
こうして seraph は、7月から約3ヵ月の間に全60曲のレコーディングを行うこととなる。
(実際に『音呼塾』にてレコーディングが行われたのは40曲、その他の20曲は『音呼塾』でのレコーディングを始める前に都内のスタジオにて行われたもの。『 seraph 』『 seraph Ⅱ 』『 seraph Ⅲ 』に収録されている楽曲は全て都内スタジオにてレコーディングされたものとなっている。)
レコーディングに関しては、プロデューサー的な立場に立った不動孔明が楽曲のアレンジに参加。レコーディングエンジニアには深海純を起用。コーラスには友人たちが参加。Dream Ticket 時代の元メンバー 龍斗 & 心影、愛音の姉である明菜もバックコーラスで参加している。
2004.10
自主制作デモテープ『 seraphic kiss 』を200本限定配布。
2004.12
都内某ライブハウスにて、seraph としての活動に終止符を打った解散ライブ『 seraphic “Good Bye” 』を行う。
会場では集まったファンに、自主制作デモテープ『 seraphic rhythm 』が配布された。
解散ライブのアンコール 最後に歌われたのは、1995年に神楽が愛音の楽曲を始めて聴いて衝撃を受けたデモテープにも収録されていた『 JULIA××× 』だった。
こうしてseraph は、8年9カ月の活動に幕を降ろした。
2005.1
愛音の心が止まる。
2014.12
seraph の解散から10年が経過したこの月、不動孔明が音楽プロダクション【 plastic foundation 】を設立。
これは2004年に愛音の病室で立てた活動計画の「seraph が解散した10年後に、seraph の残した楽曲を世に伝えていく」というものを実現させる為に不動孔明が立ち上がったものである。
当時、seraph の一番の理解者であった不動孔明をプロデューサーに迎え行ったレコーディング全60曲の音源が、今後 plastic foundation から順次リリースされることとなる。
seraph の新たな物語は、ここから始まる。